パリに生まれる。
戦前のフランス、1927年のサロン・ドートンヌに出品した「屋根裏のバー」が認められ、建築家ル・コルビュジエ(1887〜1965年)のアトリエに入所します(37年3月まで)。そこでル・コルビュジエ、ピエール・ジャンヌレとともに、鉄、アルミニウム、ガラスといった新素材を用いて制作した「住宅のインテリア設備」を発表し、新時代の住宅のあり方を提言しました。
1940年、かつてル・コルビュジエのアトリエで同僚だった坂倉準三の推薦により、商工省の「工芸指導顧問」として初来日。海外向けの工芸品の改良・指導を任され、柳宗理とともに日本全国をまわり、仙台の工芸指導所では若い研究員を対象に、素材の扱いやデザイン等を指導しました。
日本滞在中に、「民藝」運動の推進者である柳宗悦や河井寬次郎らとも交流したペリアンは、「民藝」の理念に共鳴し、地方に残る伝統的な意匠や技術を同時代の感覚で再生しようと試みました。1941年の「ペリアン女史 日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への一示唆(通称「選擇 傳統 創造」展)」で発表した《竹製シェーズ・ロング》はその一つです。ペリアンに随行し仕事に取り組む姿を間近で見た若き日の柳宗理も、素材の性質を生かし、機能や用途にあった利用の仕方を追求する、デザインに対する彼女の姿勢に大きく影響を受けたと言われています。こうしたペリアンの活動は、柳宗理のみならず、戦後のデザイン界に強い影響を与え、日本のモダンデザインの形成のきかっけとなりました。

「選擇 傳統 創造」展、髙島屋会場、東京、1941年 Photo: Francis Haar
1953年、再び日本を訪れたペリアンは、東京で「芸術の綜合への提案―ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン三人展」(1955年)を開催。文楽の黒子から着想した椅子《オンブル(影)》をはじめ、違い棚をヒントにした《ビブリオテック・ニュアージュ(書架「雲」)》など、戦前の日本体験をデザインに生かした数々の名作を生み出し、高い評価を得ます。

「芸術の綜合への提案―ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン三人展」
髙島屋会場、東京 1955年
1959年、エールフランスの東京営業所の内装・設備デザインを担当します。新営業所の開設計画は夫のマルタンによるもの。ペリアンは現場の建築統括に坂倉準三を指名。穏やかで落ち着いた空間に、飛行機の両翼をかたどった斬新なカウンターを置き、チャールズ&イームズの椅子を採用しました。
在仏日本大使公邸の内装設備を手がけました。既存建築のリニューアルのために日本大使公邸が設計と構想を保証する顧問に任命した坂倉準三の求めで、内装建築と屋内設備を担当。ペリアンは、自由な平面で構成が変更可能な空間構成やファサードに設置された町家風の木の小幅板でできた目隠しを提案し、多様な置き方のできる、分割された丸い大きな革張り長椅子、5人掛けの木製ベンチほかの家具をデザインしました。
ペリアンのアトリエからほど近いラス・カーズ街にある、斬新なデザインのテキスタイルを製造販売していた日本の企業「四季ファブリック・ハウス」の内装と設備を担当します。磁石を使って布を吊り下げてディスプレイできる装置など、創造的な空間を出現させました。
ユネスコのパリ本部ピアッザ広場で開催されたパリ日本文化祭に「茶室」を出展。公のものとしては、これがペリアンの生前最後の作品となりました。

ユネスコ庭園内《茶室》入口、パリ、1993年 Photo: Pernette Perriand- Barsac, Jacques Barsac
ロンドンのデザイン・ミュージアムにて「シャルロット・ペリアン モダニスト・パイオニア」展開催に際し、展示デザインを担当。
パリにて逝去。
戦前のフランス
シェーズ・ロング
日本の印象
「選擇 傳統 創造」展
モダンデザインの形成
スキー
戦前のフランス
ペリアンが装飾芸術中央連盟付属学校を卒業したのは1925年。当時のフランスは女性に参政権も無く、まだまだ女性の立場が不安定な時代。やはり男性中心だった建築の世界で、ペリアンが自身のアイデアを実現していくための苦労は想像に難くありません…。一方で、「私は決めた、ル・コルビュジエと仕事をする」と、単身でル・コルビュジエのアトリエの門を叩いたペリアン。男性社会を生き抜く困難をものともせず、力強く大胆につきすすんでいく女性でした。
シェーズ・ロング
1927年のサロン・ドートンヌに出品した「屋根裏のバー」が認められ、ル・コルビュジエのアトリエへ入所することになったペリアン。彼とそのいとこのピエール・ジャンヌレとの恊働によって、数々の住宅設備や家具を発表します。その中の一つが、「シェーズ・ロング」。展覧会のポスタービジュアルに大きく登場している《竹製シェーズ・ロング》は、日本ではなじみ深い素材である「竹」を用いて制作していますが、もとは金属で作られました。この独特のフォルムに見覚えのある方も多いのではないでしょうか? ル・コルビュジエがデザインしたという印象が強いかもしれませんが、実はこれもペリアンとの恊働によるものなのです。
モダンデザインの形成
ペリアンは、閉鎖的だったキッチンを開放し対面式にした「キッチン・バー」を考案するなど、見た目の良さを兼ね合わせた実用的な設備をつくりだすことに取り組んできました。狭いスペースを有効に活用したシステムキッチンや、伸縮可能なテーブル、スタッキング収納できる椅子といった、今ではおなじみの機能やデザインも、当時は人々の生活スタイルを変える大きなきっかけだったのです。
日本の印象
1940年、かつてル・コルビュジエのアトリエで同僚だった坂倉準三の推薦により、商工省の「工芸指導顧問」として初来日することになったペリアン。ポルトガル、インド、中国を経由し、船旅で2ヶ月もかかるほど遠く離れた異国の地は、ペリアンの目にどのように映ったのでしょうか。滞在中、各地の工芸品を見てまわったペリアンは、日本人と同じ生活を経験することを望みました。工芸指導所員たちと一緒にこたつを囲み、畳に布団で寝たりと、日本の生活に慣れ親しんでいる様子が写真に残されています。
「選擇 傳統 創造」展
各地の視察、柳宗悦や河井寬次郎との出会いから民藝の精神を学んだペリアンは、藁や竹などの素材に興味を持ちます。7ヶ月におよぶ滞在の成果として行われた、通称「選擇 傳統 創造」展(1941年、髙島屋、東京)でも、《竹製シェーズ・ロング》や、その上に敷くためのシートを藁編みの技術を用いてデザインするなど、ペリアンはこれまでの作品の機能とデザインを保ちつつ日本ならではの素材や技術の利用を提示しました。
一方で、「大先生」と言われるような現代工芸作家の作品を、ケースに×印をつけ「よくないものの例」として紹介する大胆な展示も。ダメなものはダメ、まさに「竹」を割ったような性格だったようです…。
スキー
登山に洞窟探検、ハイキング、カヤック、スキーなど、活発にスポーツと自然を愛したペリアン。特にスキーに関してはプロ並みの腕前だったようです。1940年の来日時には、公務としてフランスの最新スキー技術を収録した映画を紹介し(*1)、日本へのアルペンスキー導入に貢献しました。
ひとたび自然を前にすれば、性別関係なく、各自の責任とチームの結束が必要とされるスポーツの世界。同様に多くの人と仕事をこなす建築の世界でも、スポーツを通して養われた高い忍耐力とチームプレーの精神が役立ったに違いありません。
*1 マルセル・イシャック(Marcel Ichac, 1906-1994)監督作品『スキー・フランセ(Le ski français)』(1938年)。日本では邦題『新らしいスキー』として、1941年に麹町の産業組合中央会で封切り後、全国の映画館で上映。